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咸宁舰二代(原意大利Lepanto号)的一段曲折历史背景

2020-02-28 21:26:35 阅读

以下为背景文章(日方记录角度,不代表本站立场,谷歌翻译):


1943年9月8日,远东意大利的局势完全改变。意大利政府休战。墨索里尼(Mussolini)在1943年7月26日的一次政变中辞职后,新政府在战争开始时由战士彼得罗·巴多格里奥(Pietro Badoglio)将军领导,显然仍在继续作为轴心国的战斗。然而,在幕后,他正在与盟国谈判和平。结果,9月8日宣布休战。


远东意大利军队的总部要塞埃曼诺·卡罗特要塞被日军包围,经过一小段战斗后,不愿效忠后来的意大利社会共和国(RSI)的意大利人被送往集中营变成了。意大利的特许权被中华人民共和国政府在南京吞并(所谓的王兆梅政府),RSI政府对此表示认可。后来,在1947年的《巴黎和平条约》中,意大利正式放弃了在天津的意大利特许经营权,并返回了中国。承诺加入RSI的意大利军人被“允许”与日本和德国海军合作。


在日本和日本占领地区,意大利人被作为“敌人外国人”拘留。然而,令人怀疑的是,他们是“忠诚的外星人”,他们拒绝忠于RSI政府,而是站在“叛徒”巴德里奥政府的一边。在日本,“意大利人是叛徒”的情绪已经越来越高,对RSI政府的宣誓效忠并不意味着意大利人受到信任。对于军事人员和外交官,特别是对平民而言,情况并非如此。


实际上,帮助达成意大利经济协定的意大利商务参赞Romolo Angelone是一个狂热的法西斯成员,誓言忠于墨苏里尼州长,但被拘留,并被从营地中拘留。抗议不公正的拘留。京都大学(Kyoto University)的一名意大利老师Fosco Maraini抗议该营地的灾难性环境,用斧头砍了他的小指,并向警卫员展示了它。这一集是众所周知的。甚至向营地中的意大利人提供了微不足道的维持生命的食物,甚至被控制被拘留者的警察贪污。营养不良和瘦弱的意大利人正在与饥饿作斗争,包括通过外部渠道。


在印度驻东京大使馆工作的那些人,例如英德利大使,巴尔萨莫海军上将和费德里奇中尉,也被捕。举行了所谓的“宣誓仪式”,以加入RSI政府或王国政府,但据说大多数使馆官员宣誓就职于王国政府。被日本当局逮捕的海军上将巴尔萨莫就是这种情况。但是,并非所有意大利人似乎都被永久拘留过,有些人,例如坎奇米先生,在临时拘留后被释放,并被允许在神户的外国定居点工作(也许对于对当局“无害”的外国人)。


关于在停战宣布时护航舰队的记者``厄立特里亚'',司令伊亚努奇(Ianucci)符合国土海军总司令拉斐尔·德·科登(Raffaele De Courten)海军上将的命令(``或者在中立国家的某个港口解除武装。如果您无法到达该港口,请沉没自己。”伪装的巡洋舰Kallithea II在神户港沉没,而排雷船Lepanto和Ermanno Carrot在上海港沉没。但是,毋庸置疑,日本人对那些遵从祖国指示并受到严厉对待的意大利人感到非常生气。在港口遭到破坏的``Kallithea II'',``Lepanto''和``Ermanno Carrot''被日军悬浮和修复。 “胡萝卜”在日本海军中恢复为“鸣海”。生田川丸在1945年的一次美军空袭中被击沉,但冲月和鸣海幸存下来直到战争结束,并被中国海军占领。

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排雷舰“ Lepanto”被日本海军扣押,成为炮舰“冲月”。 这是上海和青岛之间的车队运输过程中拍摄的照片。 

战后,它被中国海军占领,成为咸宁。 换句话说,这是一艘横跨意大利,日本和中国三个国家的军舰


以下被背景文章(日方记录角度):


1943年9月8日に極東におけるイタリアの状況は一変した。イタリア王国政府の休戦である。1943年7月26日にムッソリーニ統帥が王党派のクーデターで失脚した後、成立した開戦時の参謀総長ピエトロ・バドリオ元帥(Pietro Badoglio)率いる新政権は、表面上は枢軸国として戦闘を継続しているものの、裏では連合国側と講和交渉をしていた。それによって、9月8日に休戦宣言がなされた。


極東イタリア軍の本部であったエルマンノ・カルロット要塞は日本軍に包囲され、小規模な戦闘の後に、後に成立するイタリア社会共和国(RSI政権)側へ忠誠を誓わなかったイタリア人は強制収容所送りとなった。イタリア租界は南京の中華民国国民政府(所謂汪兆銘政権)によって併合され、RSI政権もそれを認めた。後に1947年のパリ講和条約でイタリアは正式に天津のイタリア租界を放棄、中国に復帰することになる。RSI側に忠誠を誓ったイタリア軍人は日本海軍やドイツ海軍に協力することを「許可」された。


日本及び日本占領下の地域では、イタリア人は「敵性外国人」として抑留されていった。しかし、彼らがRSI政権に忠誠を拒否して「裏切り者」のバドリオ政府に味方をした「敵性外国人」であったというのは疑わしい事実であった。既に「イタリア人は裏切り者」というムードが高まっていた日本において、RSI政権に忠誠を誓ったからといってイタリア人が信頼を得られたわけではない。軍人や外交官ならまだしも、民間人であればなおさらである。


実際、伊日の経済協定締結に尽力したイタリア商務参事官のローモロ・アンジェローネ氏(Romolo Angelone)はムッソリーニ統帥に忠誠を誓う熱烈なファシスト党員であったが抑留されており、彼は収容所から不当の抑留について抗議している。京大でイタリア語講師を務めていたフォスコ・マライーニ氏(Fosco Maraini)は収容所の悲惨な環境に抗議し、自らの小指を斧で切断し看守に見せつけた。このエピソードはよく知られている。収容所のイタリア人らには、生命を維持する最低限度の食糧しか与えられず、その食糧すらも抑留者を管理する警察官によって横領されていた。栄養失調で痩せ衰えたイタリア人たちは外部からの差し入れなどによって飢餓と戦っていたのである。


インデッリ駐日大使や駐在武官のバルサモ提督やフェデリーチ少尉のような東京の駐日イタリア大使館に勤務していた人々も逮捕された。RSI政権側に付くか、王国政府側に付くか、という所謂「宣誓式」が行われたが、殆どの大使館職員は王国政府側に宣誓したとされる。これはバルサモ提督もそうで、そのため日本当局に逮捕された。しかし、全員のイタリア人がずっと抑留され続けたわけではないようで、カンチェーミ氏のように一時的な抑留の後に解放され、神戸の外国人居住地での労働が許された人もいた(おそらく、当局に"無害"とされた外国人に対してだろう)。

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日本海軍に接収され、砲艦「興津」となった機雷敷設艦レパント」。上海-青島間の船団輸送中に撮影された写真である。戦後、中国海軍に接収され、「咸寧」となった。つまりは、イタリア→日本→中国の三か国海軍を渡り歩いた軍艦だった。


休戦発表時に船団護衛中であった通報艦「エリトレア」に関してだが、艦長のイアンヌッチ中佐は本国の海軍参謀長ラッファエーレ・ド・クールタン(Raffaele De Courten)提督からの指令に従い(「イタリア艦艇は連合国、もしくは中立国の港で武装解除を受ける。到達が不可能な場合は自沈せよ」)、日本海軍の追撃を振り切ってセイロンで英海軍に武装解除を受けた。仮装巡洋艦「カリテアII」は神戸港で自沈、機雷敷設艦「レパント」及び「エルマンノ・カルロット」は上海港で自沈した。しかし、本国の命令を忠実に従ったイタリア人に対して日本人は激しく怒り、苛酷な扱いをしたのは言うまでもない。港湾内で自沈された「カリテアII」、「レパント」及び「エルマンノ・カルロット」は日本軍によって浮揚・修復され、「カリテアII」は「生田川丸」、「レパント」は「興津」、「エルマンノ・カルロット」は「鳴海」として日本海軍で再就役を果たした。「生田川丸」は1945年に米軍の空爆で撃沈するが、「興津」と「鳴海」は終戦まで生き残り、中国海軍に接収された。


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